自分の無知さに嫌気がさす

最近、本当に自分の無知さ加減に嫌気がさす。あるいは、世の中の広さに圧倒されているのかもしれない。

例えば、最近「MMT」という単語を知った。これは、現代貨幣理論(Modern Monertary Theory)の略で、最近出てきた貨幣理論と、それに伴う政府財政に対する考え方のことだ。まだあまり詳しくは理解できていないので詳細は割愛するが、要は「インフレ率2%を超えない限りにおいて、政府は貨幣を擦り続けるべきである」ということだ。明らかにここ十年程度の低金利、財政緩和の流れを汲んだ理論で、コロナ禍も相まって注目を集めている。

MMT自体についてですら学ぶべきことは多くあるが、その意味や派生する先を理解し、これからの社会を考えるには、さらに広い知識が必要になる。例えば対となる従来の貨幣理論であり、政府財政についてであり、インフレ/デフレについてであり、国際経済についてである。ある単一の事柄を知るならばそこまでの時間はかからないだろうが、それを取り巻くころがらも踏まえると、膨大な労力と時間が必要になるのだ。

そんなことを思うと、自分の無知さ加減に嫌気がさすし、世の中の広さに圧倒される。だからこそ専門家というものができたわけだが、ここまで複雑化した社会では、専門家として狭い範囲を深く追及するだけではうまく立ち回れないと思う。かといってゼネラリストを目指すべきかというと、時間や労力の制約があるので難しい。なんともアンビバレントな状況である。

要するに時間をかけて一歩一歩進むしかないのだが、自分一人ではどうやったってモチベーションが持たないし効率も悪い。同じことを考え、一緒に進んでくれる仲間が欲しいものだが、どうやって集めれば良いものか。ルイーダの酒場はどこか。

振り返ると、こういった事柄を学ぶために大学という機関(期間)があるのかもしれない。最近の大学は就職率を重視してまるで職業訓練所のようになっているという批判があるが、確かに仕事という嫌でも向き合うことになる事柄に注力するよりも、時間という資産を最大限活用して上記のような教養・知識を育む方が重要なのかもしれない。

アクセス解析が絶対におかしいと思う

ここ最近、アクセス解析の集計がおかしいと思う。

 

当ブログのアクセス数は、以下のように常に毎日低空飛行をしている。

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訴えたいのは「もっと沢山の読者に読まれているはずだ!」という妄想ではなく、単純にスターをくれる人とアクセス数の表示が合わないのだ。

いかにつまらない私の記事であろうと、毎日平均5~6人の方がスターをくれている。となると、毎日それくらいのアクセス数がないとおかしいと思うのだが、0~3と表示されることが常だ。

正直アクセス数は気にしていないので、1だろうと3だろうと別に良いと思ってはいるのだが、モチベーションには関わる。低いよりは高い方が良いに決まっている。せめて二桁入ってほしいというのが本音ではある。

そもそもの記事を面白く、読まれる形にしろというのはごもっともなのだが、そこまでしっかりした記事を毎回かける訳でもないので、もしもアクセス数の集計がおかしいのであれば、そこだけは直ってほしいと思う今日この頃である。

休みの日程しんどいものはない

最近、土日・祝日の休みがしんどい。

一番の理由は、子供がいるからだ。

 

4月から保育園に行き始めて、平日日中は子供がいない。その快適さったら無いわけだ。泣き声は聞こえないし、Eテレの派手な音楽も聞こえない。物音に対して気が散ることもなければ、育児をする妻に気を使う必要もない。一言で言えば、「働く環境」が確保される。

一方土日は真逆で、音は凄いし気もものすごく使う。そもそも仕事がないのでそれはそれで構わないのだが、勉強や読書など、仕事とプライベートの間に位置するものはやはりできない。そうすると、「やりたいのにできない」という状態が発生し、精神的にかなり摩耗する。

それが自分の趣味程度のものであれば良いのだが、仕事となると「やらねばならぬもの」であるので、死活問題である。こちとらやらねばならないのに、環境がそれをさせないというのは、尋常じゃない精神的負担である。結果、休みなのに休まないという状況が生まれる。

 

なぜこんなことを書いているかというと、まさに本日がその状況であり、一日かかる仕事が結局日中何も出来ていないのだ。それを子供のせいにするのは格好悪いことは理解しているものの、愚痴の一つでも言いたくなるのは仕方がない。

多分深夜までやることになるだろうけど、明日は午前中だけ仕事して午後は休みの予定なので、何とか乗り切っていきたい。

 

この苦しみは、ちょっと妻にも理解してほしいものではあるが、、、

投票以外に政治に対して声を挙げる術はあるのか

先日から、政治について記事を書いている。

個人的には、もっと国民から政治家あるいは官僚に対して声を届けられてしかるべきだと思う。その方法の一つが選挙による投票な訳だが、間接民主主義を採用しているので各法案に対して票を投じることはできないし、いくら内閣や政治家に不満を持ってもクビにすることはできない。

ここまで書いてみて、「そりゃ日本の政治家は権力にしがみついて国民を見なくなるよな」と思った。国民が直接自らのクビを切ることはできず、何なら興味関心を持っていないのだから。利権にしがみついていれば基本的に安泰というものだ。だからこそ、国民がしっかりと「お前らを見ているぞ」とけん制する仕組みが必要だ。

投票は好きなタイミングで出来る訳ではないので、どうすれば声を届けられるようになるだろう。自分の住む地域から立候補している政治家に直接伝えるという方法があるが、庶民には中々ハードルが高い。署名活動もあるが、これも同様。

もっと手軽に、身近に、なめらかに声を伝える手段はないものか。ちょっとこれから色々調べてみようと思う。

政治を考えることは、自分の未来を考えること

「政治について考える」というと、どうにも堅苦しく、重い話のように聞こえる。少し前の私も、そう思っていた。しかし最近は、そうでもないと思っている。

「政治について考える」とは、「自分や家族の未来を考える」ことなのだ。

 

例えば消費税。これまで3→5→8→10%と引き上げられてきたが、今後も上げるべきだろうか。私の意見はNoだ。このコロナ禍の状況で、増税なんてしたら冷え切った消費がさらに冷え込む。飲食店などは税負担が増えるので、さらに打撃を受けて、倒産する企業は増える。雇用を失い、生活ができない人が増え、生活保護受給者、自殺者が増える。結果、税収は減り支出は増えるという状況が起こる。社会の元気は失われる。そんな社会に、私自身も、私の子供も生きたくはない。

 

例えば国防。中国が尖閣諸島への領海進出を繰り返している。海警法を改正し、武器使用を許可している。日本は何もできないし、ニュースでも報じていない。「小さな島くらい中国にあげれば良いじゃないか」という人がいる。領土・了解を失うだけでは済まない。一つ前例を作ってしまえば、中国はそのまま沖縄を占領するだろうし、韓国は竹島を、ロシアは北方領土を奪ってくる。そうなれば、日本はもはや中ロの属国である。私は日本人として生きたいし、子供にも日本に誇りをもって生きてほしいと思う。

 

以上のように、今話題にになっている政治問題を見ても、私たちの生活・未来と大きく関わっている。だからこそ、「自分には関係ない」と言わず、一つ一つの問題について考える必要があるのだ。

とはいえ、私自身を含め、そんなに毎日真面目に考えられる人は少ない。私だって、毎日毎日目を皿にしてニュースを見たり情報を集めているわけではない。

だが、少なくとも選挙だったり大きな政治ニュースが出た際には、少しだけでも考えることは大切だと思う。そういったことの積み重ねが、いずれ大きな波になるのだ。

 

私自身も、政治ニュースがあったらここで取り上げて、自分の意見を発信していこうと思う。それが間違っていようと浅学であろうと、発信することに意味があると思うのだ。

政治への興味を持とう

コロナ禍を経て、政治に興味を持つようになった。

それまで私は政治には一切興味はなく、「またアホなこと報道しているな」くらいにしか思っていなかったのだが、コロナ禍になり、政治判断が国民生活に大きく影響していることを実感し、「政治は私たちたちの生活に密着している」と確信するようになった。

 

日本では、政治の話をするのは何かタブーのような扱いがされているように思う。それは例えばお上の言うことは絶対という意識や、バブル経済を経ての金権主義や、間違いを認めない空気や、一部の原理主義者の存在があるのだと思う。だからこそ、政治とは一般人がむやみに口に出してはいけないもので、私たちの生活とは関係のないものに思われている。

でも、本当はそのような空気自体が間違いで、政治は私たちの生活に密着していて、私たち自身が本来もっと普段から考えるべきことなのだ。それは税金であり社会保障であり国防・安全保障であり外交であり、コロナ対応である。

間違えた意見でも、浅学な意見でも良いので、自分としてどのような社会が理想で、そこに対して今の政権・政策が適切か否かを考え、意見を交換しなければならない。それができないから、選挙には行かず、政治はすべて政治家に任せきりで、腐った政治家を裁くこともできない。選挙権は、国民に与えられた最後にして最強の武器だ。限られた機械の中でそれを行使することこそ、私たち国民が国を動かすチャンスなのだ。

 

昨年から色々な本を読んで、政治について少しずつ学んでいる。ただ、いかんせん範囲が膨大なので、時間がかかっている。仕事もあるので、なかなか進んではいない。さらに、もっと深く考えるなら、日本という国の成り立ち、あり方についても勉強する必要がある。そうなると、もはやライフワークである。

だが、そんなライフワークも良いのかもしれない。目先学ぶべきことはあるものの、自分の中の考えを醸成していくという意味でも、今後も継続して勉強していきたい。

息子の笑顔が消える日まで

最近、1歳の息子がよく歩くようになった。

先月まではまだまだハイハイメインで、ようやく立って数歩歩けるくらいだったのが、いつの間にやらよちよちと数メートル歩けるようになっている。子供の成長速度は恐ろしいものだ。

ようやく歩けるようになったので、妻と三人で公園に行って歩く練習をしてみた。息子を中心として両サイドに私と妻が立ち、その間を歩かせたのだ。

笑顔で妻と私の間を行ったり来たりする息子はとても愛らしく、人生においてかけがえのない時間だと実感した。

 

ニコニコとしながらこちらに歩いてくる息子。途中で躓いても、ずっとニコニコしている。きっと大好きな両親に近づくことが、あるいは自分の意志で思った場所に行けることが嬉しいのだろう。

そう、子供はただ歩くという行為にも、楽しさや喜びを見出す。そして、その感情は笑顔として表現される。

しかし、その喜びはいつしか当たり前のものとなり、笑顔もなくなる。さらに月日が経つと、大したことでは喜びを感じなくなり、ますます笑顔を出さなくなり、笑顔が下手になり、しかめ面の大人になる。

私もきっと、子供の頃はただ歩くだけでも笑顔だったのだろう。新しいものに触れたり、経験するだけで、笑顔をこぼしていたのだろう。それが、過行くときの中で徐々に感性がすり減り、出来上がったのが今の私だ。それが大人になるということであるならば、なんともさみしい限りである。

 

息子も、いずれ歩くだけでは笑わなくなる。新しいことをしても笑わなくなるだろう。だからせめてその時まで、息子の笑顔をしっかりと見ておきたいし、できるだけ長く笑顔が見られるように、私自身が笑顔でいたいと思うのだ。