緩くいこうぜ、人生長いんだ。

30代、適当に生きようぜ。

30代、なんか適当になってきた気がする

 

なんかここ最近、自分がどんどん適当になってきているような気がする。

 

適当と聞くと、無責任とか放任主義とか、なんだかネガティブなイメージが付きまとうが、本来は「適している」という意味なので要は「イイ感じ」ということだ。

 

具体的に何が適当かというと、例えば仕事を無理に頑張らなくなった。

新年度から、下に人がついて一緒に働くようになった。個人事業主状態からの脱却。これまでの自分であれば、その人をいかに育成するかとかを考えて、「よし!これから一緒に頑張りましょう!」とか言って、タスクや進捗をものすごく精緻に切って、細かく声をかけたりしていたように思う。

別にそれが悪いとは言わないが、きっと私が下の人だったら「暑苦しいなこいつ」と思って嫌悪感を抱いていただろう。それくらい頑張ることに価値を置いている人間だった。

でも今は、その人がどう成長しようがぶっちゃけどうでも良い。自分がことさら何かしなくてもその人はきっと成長するし、しなかったらしなかったでそういう人ということ。「あ、よろしく~」くらいのテンションで接して、唯一気にするのはきちんとやるべきことを外さないようにすること。イメージとしてはガードレールだけ設置してあげている感じ。落ちてはいけない枠は設置するから、その中をどう走るかはお任せするよ。ただ、一応どこをどう走ったのか、あるいは走るのかだけは教えてね、と。

 

子供との接し方も適当になった。

これまでは「はい、洋服着て!」とか「ご飯食べて!」とか命令形で接していた。それは、さっさと子供の作業を終わらせて、自分の時間を確保したかったからなのだが、言えば言うほど子供はいうことを聴かないので余計に時間がかかっていた。結果、自分も疲弊して、しんどくなる。悪循環。

最近は、「洋服着てもらって良いかい?」とか「ご飯食べてもらって良いかい?」と疑問形で聞くようになった。こうすることで、なんというか、こちらの心に余裕が生まれることに気付いた。

というか、大人と大人の会話でも、相手に対して「●●して!」というのは失礼で、「●●してもらって良い?」と聞くのが普通だよね。子供だから命令して良いということはなくて、ふつーに接すれば良いのだなと気づいた今日この頃である。

 

なんでここまで適当になったのだろうか。

理由はいろいろあるのだろうが、一番はある程度現実を見られるようになったからかしら。

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頑張っても報われないことはある。逆に頑張らなくても報われることもある。

物事が上手くいくか否かは、自分だけの力ではどうすることもできないことを目の当たりにしたから、頑張ることに対する価値が減ったのかもしれない。

 

とはいえ、全く頑張らなくなったかというとそうではない。

仕事でやることはやるし、こうやってブログを書いたり色々活動はしている。

ただそのベクトルだったり、頑張る際の重点が変わったという感じ。なんというか、軽い。本当に軽い。

 

ここ最近は、これまで生きてきた中で一番楽な感じがする。

この感じのまま生きたいな。

この感じをキープしていたいな。

そうすればもっと、軽やかに日々を過ごせる気がするのだ。