緩くいこうぜ、人生長いんだ。

30代、適当に生きようぜ。

適当でも良いのではないか

小さい頃から、勉強を頑張ってきた。

幼稚園の頃は学研。小学校の頃は日能研に通い、毎日勉強していた記憶がある。

中学校に入ると、一瞬家庭教師を雇ったが、すぐに辞め一人で勉強するようになった。

高校に入っても同様で、成績は最高で学年5位まで到達したことがある。後半になると、大学受験の勉強をした。夏休みは最高毎日15時間程度は勉強して、無事にストレートで第一志望に入学することができた。

その間、一般的に多くの子供が抱くであろう「勉強が嫌!」という感覚はなかった。ただひたすらに勉強した。なぜそんなことができたかというと、一言でいえば親からの承認が欲しかったのだろう。

家の親は勉強に厳しく、テストで98点を取っても「なんで後2点落とすかね」と言ってくるタイプの人だった。また、学年20位程度の成績表を見せると、「上にはあと20人もいるじゃん」とも言われた。それが嫌で、何とか100点を取りたくて、何とか「よく頑張ったね」と言ってもらいたくて、ひたすら勉強していたように思う。

幸いなことに私自身勉強がそこまで嫌な性格ではなかったようで、無心になって頑張ることができた。でも、ある種の義務感でしか頑張っていなかったので、最高峰にいる「勉強自体が楽しい」系の人たちには叶わなかった。

 

学生時代は、それでよかった。でも社会人になってからは違う。どれだけ勉強しても誰かが褒めてくれる訳ではない。成績という一定の尺度で他人との優劣が比較される訳ではない。人間とはもっと多面的で、何を考え何を成すかで評価されるものだ。

それに気付くのが遅かった。自分が勝手に決めた一定の尺度で他人と比較し、それに落ち込む。何とか相手に勝とうとさらに頑張ろうとするが、そもそも頑張る方向や目的が異なるので評価されない。それにまた落ち込み、自己嫌悪に陥る。

思えば、そんな日々をこれまで10年以上送ってきた気がする。

 

「私がとらわれていた『しなきゃ』」

それは、「頑張らなきゃ」という思い込みだと思う。頑張れば他者に勝てる。誰かが認めてくれる。自分は救われる。

そんな思い込みがずっと私を縛ってきた、いや、今も縛っているように思う。

これからの10年は、その思い込みを徐々に解除し、自由になることが目標だ。

誰の評価にもよらない、自分だけの人生を歩むために、もう、私はきっと頑張らなくていい。