ありもしない正解を求める
昨日、『誰かを認めるということ』という記事を書いた。
誰かを認めるということ - 緩くいこうぜ、人生長いんだ。 (hatenablog.com)
上司が頑張りを認めてくれて、勇気づけられたという話だが、それに関連して気づいた点がある。
それが、「自分が正解/不正解に縛られている」ということだ。
記事を書きながら、認められた時なんで嬉しかったのかを考えた。
すると、「自分のやってきたことが間違いじゃなかったことを認めてもらえたから」という考えが浮かんだ。
それはそれで本当だ。だが、解釈を深堀すると違う側面が見えてくる。
「間違いじゃない」ということは、「正解がある」と考えていることと同義だ。
無意識のうちに、どこかに「正解」があって、それに対する自分の行動が「間違いじゃない」と捉えていたのだ。
もっと言うと、上司が「正解」を持っているもので、自分はそれを「当てに行く」と捉えていたのだ。
これは良くない。
確かに上司は経験豊富なので、過去の同じようなケースから「正解」に近いものを持っているだろう。
でも、ケースはあくまでケース。それが「正解」とは限らない。というか、そもそも仕事や行動に「正解」なんて存在しない。
にも関わらず、「上司が持っている『正解』に当てにいく」と考えてしまうと、ありもしない幻想を追い求めることになる。
それがうまくいけば良いが、行かなかった場合、「自分は『正解』にたどり着けない」と自分を否定してしまうことになる。
まさに、自分の評価を他人にゆだねた状態になってしまう。それではいくら頑張っても自分で自分を労う、認めることができないのだ。
私はこれまで自分の存在を人にゆだねすぎてきた。
これからは、自分で自分を認めなければならない。
そのためにも、ありもしない「正解」なんて求めず、自分の行動や考え自体を認めて、それを正解にしていくくらいの考えで頑張ろう。