緩くいこうぜ、人生長いんだ。

30代、適当に生きようぜ。

鎌倉と穴

 

先日、子供を連れて鎌倉の海に行った。

まだ暖かくなり切っていない季節ということで、水は冷たく、どこか物寂しさが漂っていた。でも、やはり海は良いものだ。波の音を聞いているだけで心が落ち着く。古都鎌倉ということで、新田義貞は最終的にここを攻め入ったのだなと思ったりもした。日本史を勉強しておいてよかった。

 

息子は、浜辺で砂遊びをしていた。

おもちゃのスコップで頑張って穴を掘り、掘り出した土で山を作っていた。私も参加し、一緒に穴を掘った。一直線に掘り進め、50センチだろうか、立派な縦穴が完成した。

その穴に海岸で拾った貝殻を入れ、掘り出した土を戻した。すぐに貝殻は見えなくなり、穴もすっかりなくなってしまった。さっきまでそこにあったはずの穴が、もう目の前には存在しなくなっていた。

 

穴とは何か。そんなことを思った。

確かに目の前に穴は存在した。でも、埋めてしまったら無くなってしまった。本当にそこに穴はあったのだろうか。あったとしても、それは本当に穴なのだろうか。穴自体を取り出し、「ほら、ここに穴があるでしょう」と言い切ることができないなら、それは本当にそこにあったと言えるのだろうか。

 

穴とは、ただの現象・あるいは状態なのかもしれない。

穴という実態があるのではなく、「砂の一部が大きく削れている現象・状態」を「穴」というのかもしれない。そうだとすると、穴自体を取り出すことができないのも、砂で埋めた瞬間に無くなってしまったことにも納得がいく。現象なのだから、取り出すことはできないし、外部的な出来事で変化してしまう。まさに無常だ。

 

意外と、多くのことがそうなのかもしれない。

例えば川。現代の川は堤防でしっかり流れを固定されているので実感がないが、自然にできる川は流れも流量もその時々で変化する。そもそも、そこに水が流れるかどうかも状況により変化する。これも、穴と同じく川という実態があるのではなく、あくまで現象と言える。

例えば人。人は赤ん坊として生まれてから死ぬまで、肉体的にも精神的にも変化する。何なら、一日の中で体調や気分が変化することもある。私たちは、不変的な自分という実態が存在すると考えるが、本当は一つ一つの状態が連なっているだけの存在なのかもしれない。

 

今日と明日は異なる。

あらゆるものが刹那的な状態でしかないならば、変わり続けることが物事の真理であると言える。今までがそうだからといって、これからも同じとは限らない。絶対に変わらない何かにしがみつくより、変わることを受け入れて、流れていく方が楽かもしれない。

 

鎌倉時代、武士が実権を握り文化を形成した。常に死と直面する武士は、刹那的な感覚・思想を大事にしたという。だからこそ鎌倉仏教では禅が重要視された。古都鎌倉には、時を経ても武士的な空気が漂っているのかもしれない。