30代、昔諦めたことを清算する
今年に入ってから、色々と新しいことを始めている。
このブログもその一つだし、実はピアノとお絵描きもやっている。後、これまで読んだことがなかった詩集を読んだりもしている。
どれも、これまで「やってみたい」と思っていたけど避けてきたこと。勝手に「できない」と思って逃げてきたこと。そんなことに、今向き合ってみている。ある意味で、過去を清算しているのかもしれない。
幼稚園生の頃、ピアノを習っていたが下手すぎて先生に呆れられた。
小学生の頃、模写をしましょうと言われて頑張って描いたら先生に苦笑いされた。
中学生の頃、自分なりに頑張って書いた作文の点数が低かった。
中学生の頃、授業で詩を書いたら親に「あんた下手ねぇ」と言われた。
思い返すと、いずれも当時の自分は割と好きだった。若気の至りというかなんというか、「自分はできる!うまい!」という謎の自信もあった。
でも、どこかのタイミングで、「自分は下手だ」と思ってしまった。いや、思わされてしまった。その考えは無意識にまで入り込み、勝手に「自分は才能がない」と思い込み、以降それらを遠ざけていた気がする。
本当はもっとやってみたかった。上手にピアノを弾く人や絵を描ける人を見ると、うらやましいと思った。自分もああなりたいと思った。でも、「自分には無理だ」と勝手に諦めてきた。
あれから約20年。その思いはずっとくすぶり続けた。そして、くすぶり続けた想いは、小さな炎となった。
もしかしたら私は、その無意識の思い込みから自分を解放しようとしているのかもしれない。当時自分の才能を潰した言葉たちを否定し、もう一度自分の力で挑戦しようとしているのかもしれない。
でも分かってる。自分には確かに才能はない。どれだけピアノを練習したって、ハラミちゃんのようにはなれないし、絵を練習したって村田雄介のようにはなれない。それくらいの見極めはできる。
でも、例えそうだとしても、誰かの言葉じゃなく自分の目で感覚で、「確かに才能なんてない」と思いたいのかもしれない。あるいは、それを自覚した上で、自分なりに楽しめるようにしたいのかもしれない。それこそが、昔勝手に諦めてしまったことへの清算なのだと思う。
相変わらず文章は下手だ。ピアノも下手だ。絵も下手だ。詩なんてよく分からない。
でも、下手なりに続けていると、多少上手くなったり楽しさの片鱗に触れられたりする。
その感覚が大切だ。
日々の小さな感覚を大切にして、これからも細々と取り組んでいきたい。