人間の関係
かの有名な心理学者、アドラーは説いた。
「人間の悩みのすべては対人関係の悩みである」
かの有名な文豪、夏目漱石もこう言っている。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通とおせば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」(草枕)
人間関係ほど面倒くさいものはない。私も大嫌いだ。
しかし、人としてこの世に生を受け、いみじくも残りの人生を生きていくためには、これを避けて通るわけにはいかない。
何故人間関係は面倒くさいのか。それは、相手が自分の想い通りにならないからだ。
自分はこうしたい。相手はああしたい。二つの意志がかみ合わないから、想い通りにならないことにいら立ちを覚える。もしも相手が自分の想い通りになるならば、そこに悩みなんか生まれるはずもない。
いら立ちを解消する方法は二つある。相手を変えるか自分が変わるか。
相手を変えることは容易ではない。相手だって人間だ、意志がある。だから無理やり力で屈服させたり、すり寄ったりする。これがパワハラになる。ゴマすりになる。
自分が変わる方はどうか。これも二種類ある。自分が引っ込むか、相手に合わせるか。
自分が引っ込んで事態が丸く収まるなら、それも一つの手だろう。でも、引っ込みすぎると今度は出すべき自分を見失う。自分を見失っては相手の思うがままだ。操り人形に成り下がる。
相手に合わせるとはどういうことか。
自分の意志は変えない。ただ、その出し方や伝え方を相手が求める形に合わせて調整するのだ。
そもそも人間関係とは、「人間の関係」というくらいなので、人と人との間に存在する。人には意志がある。だからその間に存在するのは「意志の出し方」だ。
その出し方がお互いかみ合わないから、いら立ちを覚える。最初はほんの小さないら立ちだったのが、徐々に蓄積され大きくなり、最終的に爆発する。そうなってはもう取り返しがつかない。
だからそうなる前に、意志の出し方を調整するのだ。相手の出し方を見て、どう返せばかみ合わせることができるのかを探る。一度かみ合ってしまえば、あとはそれを繰り返すだけだ。
かみ合わせるまでが難しいケースもある。というか、ほとんどそうだろう。
だからこそ、雑談や日常の他愛もない会話が重要になる。その人が何に興味を持っているのか、どんな考えをしているのか、多少なりでも知っていけば、かなり調整しやすくなる。後は、自分がどれだけ調整できるかだ。
人間関係が人と人との間に生じる現象であるなら、その責任は双方にある。一方で、その人の人間性自身には良いも悪いもない。ただその人がそうであって、その意志の出し方が悪いだけ。
どうすれば気持ちよく意志をかみ合わせられるかを互いに意識して調整しあえれば、きっと人間関係はずっと楽になるはずなのだ。
ただそれができないから、とかくこの世は住みにくいのだ。