感覚に気付き、言葉を磨く
人間には様々な感覚がある。
熱い、寒い、痛い、くすぐったいなどの外的な感覚から、さみしい、嬉しい、怖い、楽しいなどの内的な感覚まで様々だ。
感覚を表現することは無数にある。
特に日本語はその辺りの機微に富んでいるようで、外国語に翻訳するのが難しい言葉もある。
翻訳とは、ある言語を別の言語に置き換える作業だ。
でもそれは、ただ置き換えれば良いというものではなく、その言葉が持つ意味や感覚を余すことなく伝えるために最も適切な言葉・表現を探す作業だ。
だから、翻訳者は言語のプロであると同時に、そういった感覚や意味をくみ取るスキルも必要になる。
でも、そもそも言葉自体が翻訳されたものだと思うのだ。
たとえば「痛い」という感覚。これは言葉にすれば「痛い」だが、本当にその人が感じた「痛み」というものは、どうやっても他人に伝達することができない。
できないけど伝えたいから、苦肉の策として言葉で「痛み」を「痛い」という言葉に翻訳してい伝えているのだ。
身体や心が受けた感覚を一時情報とするならば、それを翻訳した言葉は二次情報に過ぎない。
感覚を感覚のまま、一切の翻訳をせずに直接伝える方法は、今のところない。
だから、自分の感覚を適切に相手に伝えるためには、それを表現する言葉のスキルを磨く必要があるのだ。
古典小説なんかで登場人物の心情が上手く伝わる作品は、そういった感覚を伝える言葉に長けているのだろう。
質の高い言葉を書くには、一時情報である感覚の解像度を上げる必要がある。
感覚がぼんやりしていては、それを出す言葉はもっとぼんやりしてしまう。
だからこそ、瞑想などで自分の感覚に気付けるようになる必要がある。
感覚に気付き、言葉を磨く。
そういった努力を怠ってはいけないのだ。