書くペースが追いつかん
ので、今日はお休み(別に書く必要もないのだが)
30代、目指したい人間像ができてきた
今年に入って、自分の中の理想とする人間像がかなりできてきた。
今までは、漠然と「自分はダメだ」と思ったり、周囲の人を神格化して理想としてしまっていたけど、そこから離れた、自分としての理想像のようなものができてきた。
具体的に言うと、以下のような感じ。
個人としては、毎日何か一つでも気づきを得て、自分を育てられる人。
組織としては、部下やメンバーに限らず、人を成長させられる人。
前者に関しては、以前書いた自分の良さにも通じるものでもある。
やっぱり毎日漫然と過ごすのではなく、常に自分を振り返り、何か一つでも成長できる人の方がかっこいいと思うし、単純に楽しい。
これはい自分の良さの一つでもあると思うので、大切にして伸ばしていきたい。
後者に関しては、最近特に思うことだ。
どれだけ個人で仕事ができたとしても、他人にいい影響を与えられないと意味がない。
で、「いい影響」を通じて相手を成長させられることができれば、自分にとってもメリットになる。
そのためには、自分の振る舞いを常に見返し、相手をよく見て接し方を変えるなどの工夫が必要になる。
ぶっちゃけ面倒くださいし時間もかかることだが、それをできる人の方が、人間としてのレベルは高いと思う。
きっと、もっと他にも色々な要素はあるのだろうが、現時点では私は上記のような人間を目指したい。
それを目指す中で、他の要素も出てくると思うので、それを組み合わせて自分のゴール像を築いていきたい。
マインドフルに生きる
毎朝10分程度瞑想をしている。
カーテンを開け、外に向かって胡坐をかき、目を閉じる。
頭の後ろ、後頭部のさらに先に力点がある感じをイメージする。
自分の殻を開ける。
呼吸に集中する。
瞑想の効果として、自分の意識や身体の様子に意識的(マインドフル)になれるというものがある。
自分はどのように感じているか、どのように呼吸しているか。体はどのような状態か。
ともすれば忙しい毎日の中でスルーしてしまいがちなこと。
でも、確かに大切なこと。
瞑想の中で呼吸や身体の様子に意識的になることで、日常的にそういった事柄に敏感になることができる。
結果、メンタルを落ち着かせることができる。
些細な出来事や感情に振り回されることなく、客観的に自分を見ることができる。
(もちろん、言うは易しなので私もできている訳ではない)
さらに、ストレッチや筋トレにも効果がある。
自分の身体にも意識的になれるということは、どの筋肉が伸びているか、使われているかにも気付きやすくなる。
結果、筋トレのフォーム改善や、ストレッチの効果アップにもつながる。
一番大きな効果は、自分を育てられることだ。
毎日の中で、自分が何をどう感じたかに気付くことができる。
良い面であれば伸ばせば良いし、悪い面であれば直せば良い。
そうやって自分を客観的に振り返ることで、毎日気づきを得て、自分を育てることができる。
実はこれが一番重要なのだと思う。
なんとなく人生を過ごすことは簡単だ。
でも、それでは何も学べない。
だから私は、瞑想を通じてマインドフルに日々を過ごしたいと思うのだ。
感覚に気付き、言葉を磨く
人間には様々な感覚がある。
熱い、寒い、痛い、くすぐったいなどの外的な感覚から、さみしい、嬉しい、怖い、楽しいなどの内的な感覚まで様々だ。
感覚を表現することは無数にある。
特に日本語はその辺りの機微に富んでいるようで、外国語に翻訳するのが難しい言葉もある。
翻訳とは、ある言語を別の言語に置き換える作業だ。
でもそれは、ただ置き換えれば良いというものではなく、その言葉が持つ意味や感覚を余すことなく伝えるために最も適切な言葉・表現を探す作業だ。
だから、翻訳者は言語のプロであると同時に、そういった感覚や意味をくみ取るスキルも必要になる。
でも、そもそも言葉自体が翻訳されたものだと思うのだ。
たとえば「痛い」という感覚。これは言葉にすれば「痛い」だが、本当にその人が感じた「痛み」というものは、どうやっても他人に伝達することができない。
できないけど伝えたいから、苦肉の策として言葉で「痛み」を「痛い」という言葉に翻訳してい伝えているのだ。
身体や心が受けた感覚を一時情報とするならば、それを翻訳した言葉は二次情報に過ぎない。
感覚を感覚のまま、一切の翻訳をせずに直接伝える方法は、今のところない。
だから、自分の感覚を適切に相手に伝えるためには、それを表現する言葉のスキルを磨く必要があるのだ。
古典小説なんかで登場人物の心情が上手く伝わる作品は、そういった感覚を伝える言葉に長けているのだろう。
質の高い言葉を書くには、一時情報である感覚の解像度を上げる必要がある。
感覚がぼんやりしていては、それを出す言葉はもっとぼんやりしてしまう。
だからこそ、瞑想などで自分の感覚に気付けるようになる必要がある。
感覚に気付き、言葉を磨く。
そういった努力を怠ってはいけないのだ。
30代、自分の好きなところに気付く
これまでの人生の中で初めて、自分の好きなところに気付いた。
きっかけは久々に復帰したToastmastersのスピーチ。
自己紹介をテーマにしたスピーチを書くために自分の特徴を整理していたら、ふと「ここって自分の良いところだよな」と気づき、大切にしたいと感じたのだ。
その特徴とは、「常にレベルアップを志向すること」。
例えば現在であれば、ビジネススキルの講座を受講している、友人のビジネスを手伝っている、毎日瞑想したりブログを書いてメンタルを整えている、などがある。
過去には、部活では毎日朝練をしていたし、勉強も学年5位を取るまで頑張った。アルバイトでも売上アップに貢献したし、社会人としても成果を上げてきた。
それらのコアにあるのは、やはり常にレベルアップを志向するマインドなのだと思う。
簡単に言うと「成長意欲」となるが、あまりその言葉は使いたくない。なんか安っぽいというか、意識高い系に聞こえるからだ(笑)
「成長」という言葉からは、なんか「全く違うものになる」というニュアンスを感じる。
しかし、私が志向するのは、「今の自分をより良くしていくこと」だ。だから、全く違う方向を目指すのではなく、「今の自分ができなかったことができるようになることを目指す」という意味で「レベルアップ」という言葉を使いたい。
ここは微妙なニュアンスなのであまり伝われないかもしれないが、重要な要素。
このマインドはこれまでも自分を支えてきてくれた。そして、きっとこれからも支えてくれるだろう。だから、自分の明確な強み・特長として大切にしたい。そして、そうであるならば、きっと私は私のことを好きになれる。
これまでの人生で一度も自分のことを好きになんてなれなかったが、初めて好きになれるかもしれない。
どうやってもこの自分で生きていくしかないのだ。
であれば、せめて好きで大切にしながら生きていこうじゃないか。
夢と体調
先日、久々にゾンビ系の夢を見た。
世の中にゾンビが蔓延る中、他の人間グループとの抗争に巻き込まれ、家族一同で逃げる夢だ。
最終的に、子供と妻だけ逃がして私は捕まったのか何なのか。
とりあえず、あまり気持ちの良い夢ではなかった。
夢と体調は密接にリンクしている。
例えば、私の場合は
- 肉体的に疲れている時
- 夢の中で泣く。疲れているほど現実世界でも泣く
- 夢の中で夢を見る。そして、それに気付く
- 精神的に疲れている時
- ゾンビや虫などの不快な夢を見る
- 欲求不満な時
- エロい夢を見る
となっている。
肉体的に疲れている時は、夢の中でも泣くし、本当に枕が濡れるくらい現実でも泣く。
ある時は、Mihimaru GTの男性の方が結婚するということで結婚式に参列し、女性の方と「良かったね~」と号泣していた。意味が分からん。
楽しい夢はあまり見ない。
それは別に見なくても良いだろうという意味なのか、覚えていないだけなのかは分からない。
でも、「あの夢もう一回見たいな~」という夢はほとんど見ない気がする。
一つだけ印象に残っている夢がある。
桜の木の下で女性と別れる夢だ。
分かれと言っても恋愛ではない。何か大切な、覚悟を伴った別れだ。
女性の顔も分からない。シルエットと後ろ姿だけ。
でも一本の満開の桜の木の下でその女性と別れることは、寂しくもあり美しくもあり、一つのシーンとして脳裏に焼き付いている。
夢の続きを見たいと思うこともある。
でも、あえてそのままにしておいた方が良い気もする。
いずれにせよ、夢なのだ。
そこから得られるメッセージは大切にしつつ、現実の今日を生きていこう。
我々はしゃべりすぎている
最近、瞑想に力を入れている。
毎朝10分、窓の方を向いて胡坐をかいて目を閉じる。
頭のモードを切り替え、呼吸している感覚に集中する。
通勤電車内でも、なるべく目を閉じて静かにするようにしている。
おかげさまで、うるさい環境でもイライラせずに作業等に集中できるようになった気がする。
瞑想をする中で気付いた。
我々はしゃべりすぎている。
もちろん、実際に言葉を発するという意味でもしゃべり過ぎているが、一人で目を閉じている時でも、頭の中でずっと話している。
話すとは言葉だ。
そして、言葉とは思考だ。
つまり、我々は常に思考しているのだ。
思考することは良いことだ。
でも、それは本当に必要な思考なのだろうか。
無意識的に言葉を垂れ流しているだけではないだろうか。
そのせいで、自分の身体の感覚や周囲の様子に気付けなくなってはいないだろうか。
イヤホンで音楽をすることはその最たるものだ。
自分で自分の耳を塞いでしまう。
そうすることで、他人の思考を自分に浴びせ、自分自身の感覚を覆いかぶせてしまう。
我々はしゃべり過ぎているのだ。
少し黙って、自分の感覚や相手の様子に意識を向けよう。
言葉にできないことにこそ、本当の何かが隠れている気がするのだ。