緩くいこうぜ、人生長いんだ。

30代、適当に生きようぜ。

仏教を生きる

 

先日、カウンセリングに行って色々すっきりしたという記事を書いた。

yoshisroom.hatenablog.com

 

話した内容についてもう少し考えると、今の私には仏教の教えがマッチしており、まさに必要としている考え方のようだ。

 

恐らく、私は以下のような形で認知が歪んでいる。

  1. 過去の経験等から、自分を過小評価する
  2. そのカウンターバランスとして、他者を過剰評価する
  3. 結果、他者が自己よりも優れており、自分のことを理解し救ってくれると期待する
  4. 一方で、自らの価値認識を高めるために過剰に優れて見せようとする

 

要は、悪い意味で自分を下げて相手を上げるような見方をしているのだ。一見すると謙虚な考え方のように見えるが、その裏には自分をよく見せたいという傲慢さが隠れているため、謙虚とは真逆の考え方と言える。

 

正直、この生き方は苦しい。

他人は、自分が思っているほど私に興味があるわけではない。また、無条件に優れている訳でもない。できないもんはできないし、理解できないもんは理解できない。それを無視して他人に自らを預けて生きてしまうと、すぐに期待を裏切られたり理想との差に愕然としてしまう危険性がある。結果、常に苦しみにさいなまれ、人生が生きにくい。

 

では、仏教ではどう考えるか。

仏教では、物事をありのままに観察し、そこに解釈や物語を創りだすことなく受け止める。自分や他人に対する期待や欲は持たず、ただ果たすべきことを果たすだけ。自らに毒となることは成さず、必要なものを必要なペースで実践するのみ。

そもそも、変な評価をしたり、期待を持つから苦しいのだ。自らが理想とする生き方をするのは素晴らしいことだが、それを他人に求めたり、他人も同じであると考えるのは自分を苦しめるだけ。自分も他人もどちらが優れているとか劣っているとかなくて、ただ「そうである」だけ。物事を極限までシンプルかつドライに捉え、無駄な評価をしない考え方だ。

 

これは、他人への接し方にも応用できる気がする。

つまり、自分がやりたいことを押し付けるのではなく、相手が求めることを相手が求める形で行うのだ。人は誰しも自分の物語の中に生きている。であれば、自分の物語を押し付けるのではなく、その人の物語に合った形で物事を伝えたり依頼しなければ受け入れてもらうことなどできない。

自分と他人は違う。まずはその当たり前の事実を受け入れ、前提に立つべきなのだ。

 

仏教は行学一致が重要と言われている。つまり、学んだうえで実践することが重要ということだ。学ぶことは本からでも行くからでもできる。後は、日々の生活の中で、いかに実践できるかだ。それは、私がどれだけ自分自身に自覚的でいられるかにかかっている。